

1709年、ブラジル生まれでポルトガル・リスボンの宣教師であり、優秀な数学者・物理学者でもあった「バーソロミュー・ローレンツォ・グスマン」は、時の国王ヨハン5世に宮殿に招かれた折、「空と海の上を飛び、王国のあらゆるところに至る方法」について説きました。国王から研究への資金提供の約束を取り付けたグスマンは、1709年の6月から8月にかけて4回の飛行実験を行い、気球が燃えてしまった初回を除き、無人の飛行に成功しています。
特に8月8日に行われた3回目の実験では、それまでよりも大型の気球を使用し、「インド邸(Casa da India)」から約1kmを飛行したとされます。この一連の実験により、彼は教会による異端審問にかけられたため、それ以降の実験は行われず、有人飛行にも至っていません。彼がどのようにして熱気球のアイデアを得たかという点については、依然謎のままです。しかしながら、熱気球の原理を発見し、実際に飛行させることに成功したという点では、「グスマン」が世界初といえます。

18世紀後期、フランス・リヨンにほど近いアノネイに住む「モンゴルフィエ兄弟(ジョセフ・ミッシェル・モンゴルフィエ、ジョセフ・エチエンヌ・モンゴルフィエ)」は空気より軽い空気を袋に閉じこめて飛行する研究に没頭していました。ある日、生業である製紙工場の煙突から立ち上る煙をヒントに、暖炉から出る煙を紙袋に入れてみたところ、紙袋は見事に天井まで上昇した、といわれています。 当時は、熱した空気を詰めた気球がなぜ飛行するかという原理は解明されておらず、暖められた空気は特殊成分を持つものとされ、「モンゴルフィエのガス」と呼ばれるようになりました。
1783年6月5日、アノネイでの公開実験で、容積7,200立方メートルの巨大な気球は、藁を燃やした煙を一杯に孕んでゆっくりと上昇し、1,950mの高度に達し、約10分で2,316mを飛んだとされます。アノネイでの実験から約半年後の11月21日、「ピラトール・ド・ロジェ」と「マルキ・ダルランド侯爵」の二人を乗せたモンゴルフィエ気球はブローニュの森から浮上し、約90mの高度で25分間滞空して8.8kmを飛び、人類初の有人飛行が実現しました。
モンゴルフィエの熱気球に遅れることわずか11日、「ジャック・シャルル」による水素気球がシャルル教授自身を乗せて、初の有人飛行に成功しました。
1783年6月、「モンゴルフィエのガス」と水素の比重を比較した結果、はるかに軽い水素を気球の材料として用いることを決定したフランス科学院は、「ジャック・シャルル教授」に水素発生装置の考案を依頼し、また気球の方は絹にゴムを含浸させて気密にする技術を開発した「ロベール兄弟」が作成することになりました。
その後、わずか2ヶ月後に直径3.9mの小型気球が完成。「シャリエール号」と名付けられ、1783年8月27日、数十万人の観衆に埋め尽くされたパリのシャン・ド・マルス練兵場で初飛行に成功しました。
モンゴルフィエの熱気球が発の有人飛行に成功した直後の12月1日、テュイルリー宮の庭から「シャルル教授」と「ロベール」を乗せたガス気球は2時間で43kmを飛行した後いったん着陸し、「ロベール」が降りた後「シャルル教授」単独で飛行し、高度約2700mにまで達したといいます。
20世紀に入ると「ライト兄弟」によって生み出された動力付きの飛行機がめざましい発展を遂げ、自ら動く事ができない気球は、実用的な移動手段としては影を潜めましたが、一方で、気球による記録へのチャレンジはいっそう規模が大きくなっていきました。中でもこれなくして語れないのが「ゴードン・ベネット・レース」でしょう。新聞経営で大成功を収めた「ゴードン・ベネット」は、私費を投じて初の国際気球レースを開催しました。このガス気球による無制限長距離レースは、大戦による中断はあったものの、今なお続けられており、ガス・バルーニストにとってその栄冠は最高の栄誉といえます。
ガスバルーンに比べ、熱気球は高熱の炎を扱う必要があり、その制御の難しさから影の薄い時代が続きましたが、戦後の化学繊維の発達やプロパンガスを使用する機器の開発によって急速に広がりを見せ、特に1960年にアメリカの「エド・ヨースト」が熱気球用のコンパクトで強力なガスバーナーを開発すると、熱気球競技への情熱は急激に高まってゆきました。
イカロス5号
太平洋戦争が終わり、日本が経済成長に突入した1960年代には、国内でもスカイスポーツへの関心が高まってきました。
1969年、当時京都の学生だった「島本伸雄」、「梅棹エリオ」によって製作された手作り気球「イカロス5号」が日本初の熱気球として飛行に成功し、日本中を沸かせました。
熱気球のノウハウは、当時の国内には皆無の状態。暗中模索で熱気球の技術を探り、資金繰りに東奔西走しながら、1969年9月27日「イカロス5号」の飛行を実現させたのです。
「イカロス5号」に続いて各地の大学探検部などを中心にして、手作り熱気球が作られました。
1973年に国内熱気球の団体「日本熱気球連盟」(1975年から「日本気球連盟」に改称)が設立され、日本での気球スポーツの母体となっています。
現在国内の熱気球は約700機≦連盟登録者約2,000名と、日本は世界第4位の競技人口を有するまでになりました。
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